スクラムは、アジャイルを実現する標準的なフレームワークとして広く普及しています。とはいえ、以下のような「スクラムの理想」を押し付けすぎると、うまくいかないことがあります。
- チームは自己管理し、改善し続けなくてはならない
- 全員が積極的にアウトカムにコミットする必要がある
- スクラムガイドに従っていくべきだ
これらは、表面的には「正しい」ことですが、行き過ぎれば、チームやメンバーを苦しめることがあります。そこで、この問題に「マッチョスクラム問題」と「スクラム教問題」という名前をつけて整理し、その解決策を考えてみました。
マッチョスクラム問題
マッチョイズムとは何か
マッチョイズム(Machismo)とは、もともとラテン文化圏で「男らしさ」や「強さの誇示」を意味する言葉ですが、現代では性別を問わず、「弱さを見せず、困難に打ち勝つ姿勢が価値である」とする考え方全般を指すようになっています。
ビジネスの現場では、この価値観がさまざまな形で表れます:
- できないのは努力が足りないからだ
- 助けを求めるより、自分で解決しろ
- 弱音を吐くな
こうした言葉は「前向きさ」や「成長意欲」といったものと一緒に現れます。
そして、強く前に進む人ばかりが賞賛され、そうでない人は「何かが足りない」とされる。この構造のなかでは、チームや個人に過剰なプレッシャーがのしかかります。
スクラムでも「マッチョイズム」が強くなりすぎると、チームやメンバーに過剰な負担を強いることがあります。
これを「マッチョスクラム問題」と呼んでみます。
自己管理の強制
スクラムにおいて、自己管理は重要なキーワードです。しかしこれがマッチョイズムと結びつくと、次のような圧力が生まれます。
- チームが自律的に解決すべきだ
- スクラムマスターは問題に介入してはいけない
- 自分たちで判断できないのはチームが未熟だからだ
こうした声の背後にあるのは、「強くあること」が前提とされてしまっている空気です。
自己管理できないのは、努力が足りないからだ、という論理がチームを追い詰めていきます。
自己否定的な改善
スクラムでは、スプリントごとにふりかえり(レトロスペクティブ)を行い、継続的な改善を目指します。
しかし、マッチョな空気が支配していると、ふりかえりが「何ができなかったか」を指摘しあう場になってしまいます。
- なぜもっと早く動けなかったのか?
- なぜ計画を守れなかったのか?
といった問いが繰り返されることで、改善が「自己否定」や「ダメ出し」となります。
過剰なアウトカム志向
スクラムでは、「アウトカムに責任を持つ」ことが重要だとされます。
それがマッチョな価値観に結びつくと、「成果を出せない人は貢献していない」「発言しない人はチームに不要だ」という空気が生まれます。
これは、性格的な側面も含めて、多様なメンバーが安心して関わる余地がなくなります。
スクラム教問題
教条主義とは何か
一方で、教条主義(dogmatism)とは、ある原則やルールを絶対のものとして扱い、状況に応じた適応や批判を受けつけない態度や構造を指します。
これは宗教や思想に限らず、教育、政治、ビジネスのあらゆる場面に潜む構造です。特徴的なのは、次のような振る舞いです。
- 原理やルールを守ること自体が目的になる
- 違和感や批判が「未熟」「理解不足」とされる
- 異なるアプローチを“正統からの逸脱”とみなす
- 「なぜそれをやるのか」が問われなくなる
これは自律的な判断や多様な視点を排除することにつながります。
なぜ人は「正しさ」にすがるのか
人は複雑な状況に直面したとき、単純な答えを求めたくなる傾向があります。これが教条主義に陥る理由です。
- これさえ守れば、うまくいく
- ガイド通りにやれば、責任は果たせる
- 迷うより、従った方が安全だ
こうして手段が目的にすり替わり、形式的には正しく運用されているように見えても、実態としての成果にはつながらない状態となります。
スクラムにおいても「スクラムはこうあるべきだ」「このやり方が正しい」といった「正しさ」の主張は、手段の目的化につながります。
これを「スクラム教問題」と呼んでみます。
スクラムガイドが「正しさ」になる
スクラムガイドは、あくまで枠組みの参考資料です。しかし、スクラム教では、以下のようになります。
これは、理論に忠実であるようで、現場の現実を無視した形式主義につながります。
問題の発生要因を把握する
これらの問題を解決するためには、問題の発生する構造をきちんと理解する必要があります。
これはスクラムそのものの問題と、スクラムに関わる人の問題があると思います。
スクラムの問題
スクラムガイドは、あえて抽象的な表現でまとめられています。これは厳密なルール化を避けるために、記載を原則論だけにとどめ、現場に余地を残すためです。スクラムガイドにも以下のように記載されています。
スクラムフレームワークは意図的に不完全なものであり、スクラムの理論を実現するために必要な部分のみが定義されている。(中略)スクラムのルールは詳細な指⽰を提供するものではなく、実践者の関係性や相互作⽤をガイドするものである。
しかし、日本人の気質もあり、書かれている通りの「あるべき」にとらわれやすくなります。
また、スクラムの認定制度や研修制度は、テクノロジーの認定に比べて基準が曖昧になるため、マッチョ化や宗教化を防ぐには機能しません。逆に、認定があることで「認定を持っているなら問題ない」と思われがちです。
スクラムに関わる人の問題
ただ、より本質的なのは、スクラムに関わる人の問題でしょう。
スクラムは、自己管理・対話・価値といった理想を掲げています。この「理想の文化」が、自身の環境への不満に対する逃げ先として利用されることがあります。
理想が、個人の不満と結びつくことで、「スクラムを実現できないお前ら/環境が悪い」という考えに繋がりやすくなります。
こうした、ある種の「ストレスのはけ口」や「うさばらし」は、IT業界特有の理不尽な環境に長く置かれた人に起こりがちな気がします。
また、スクラムマスターやアジャイルコーチといった権威性を持ちがちな立場では、自身の影響力に気をつけて他者と接する必要があります(僕自身も自戒しなくてはなりません)。
解決のために「スクラムを実践する」
マッチョスクラム問題や、スクラム教問題に対抗するには、本当の意味で「スクラムを実践する」ということが大事だと思っています。
経験主義に立ち返る
スクラムガイドには、スクラムが経験主義に基づいていると記載されています。
スクラムは「経験主義」と「リーン思考」に基づいている。経験主義では、知識は経験から⽣まれ、意思決定は観察に基づく。
スクラムは「やってみて、観察し、学び、そして、変えていく」という試行錯誤の仕組みです。これは現状を中立的に受け入れることを前提にします。
現状に課題や気になることがあれば、それを観察することから始めます。その状態を受けいれます。
いきなり「それは間違っている」「こうすべき」と課題を塗りつぶしてしまってはいけないのです。
「なぜ、そうなっているのか?」ということを丁寧に掘り下げ、それを関係者で共有する必要があります。それから、どうすれば良いかを考えます。
なぜ、スクラムなのかを考える
いずれにせよ「スクラムガイド通りにやったらうまくいく」という現場は多くありません。現状とのギャップを正しく把握し、どうすべきかを考える必要があります。
最近、よく使っているのが「進め方マップ」による認識の共有です。

この進め方マップは「要件定義の進め方」と「開発の進め方」という2つの軸で構成されています。
- 要件定義の進め方
- シンプルな要件定義:関係者も少なく、要件も見えている
- 煩雑な要件定義:関係者が多く、要件は煩雑・複雑で、精緻に進めていく必要がある
- 探索的な要件定義:関係者の認識が合わなかったり、社外向けだったり、要件定義がさぐりさぐりになる
進め方マップは、チームが対象とする領域の特性を踏まえ、我々はどこにいるのか?という認識を共有するために使います。
一般的には、「煩雑な要件定義にはウォーターフォール」、「探索的な要件定義にはアジャイル」が向いています。シンプルなら、どれでも大丈夫です。
しかし、世の中はそう単純ではありません。DXのような業務改革を伴う案件では、煩雑さと探索さが同居します。
そのため、「ウォーターフォールでやるには要件定義のリスクが高すぎ」て「アジャイルでやるには組織内の意思決定に時間がかかる」といったジレンマに陥ります。
こうした場合は、四半期サイクルをおすすめしてます。チームは1-2週間サイクルを維持しつつも、時間のかかるステークホルダーとの合意形成は、四半期サイクルを意識するのです。
大事なことは「うまくいかない」ことを受け入れ、それを「悪」とみなさず、「現実」として観察し、どうすべきかを考えるのです。
まとめ:「別の強さ」について
スクラムの実践では、しばしば「強さ」や「正しさ」を求めます。それにも一定の必要性があります。何かを信じなければ、人は安心できません。
しかし、自律せよ、価値に貢献せよ、正しくあれ、という言葉が強すぎれば、チームにプレッシャーを与え、かえって柔軟性や協調を失わせます。
だから、この記事では「マッチョになるな」「宗教にするな」と書きました。
しかし、「現状を受け入れる勇気」や「考え続ける姿勢」を強いることも、ある意味では別のマッチョや宗教になってしまいそうです。
そうならないためには、「誰か/何かが間違っている」と断じることではなく「いま、どうなっているのだろう」「どうすれば、よりよくなるのだろう」と問い続けることです。
スクラムは正しさを定めるための規則ではなく、対話し続け、「よりよい」を探すための仕組みです。
なので、スクラムに関わる人は、現実を否定せず、理想に溺れず、その間で揺れながら対話を続けなくてはなりません。
この不安定さを受け入れ、問いを続けることで、その先に「よりよい」が見えてくることを信じることが、マッチョスクラム問題やスクラム教問題を解決するために必要な「別の強さ」なのです。