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ITアーキテクト 鈴木雄介のブログ

ITに社会は変えられるのか

もう2012年も終わりですね。年の瀬に「社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望」が面白かったので久しぶりに感想文。

 

IT業界のトレンドを示すキーワード、いわゆるバズワードの入れ替わりは相変わらずの勢いです。今年はクラウド、ビッグデータ、ソーシャル、モバイルというところでしょうか。特にソーシャルは2011年のFacebook/Twitterブームが頂点と思いきや、LINEの登場で、まだまだ面白いことが起きる可能性が残っていることを示しました。2013年もソーシャルとモバイルの勢いはとどまることをしらないでしょう。

 

さて、一方で、こうしたバズワードの流行とともに語られるのが「"IT技術"が世の中を変える」という話。本当にそうなのでしょうか?本書は、そんな言説を一刀両断しています。なぜか。それは「技術が進歩したから社会が変化したのではなく、社会の変化によって技術の使い方が変化した」からです。

『技術を使う時、私たちはその技術の使い方を選択している。つまり、それは技術の問題ではなく、社会の側の問題、私自身の問題なのである』

まず社会の変化があり、その変化の中で技術の使い方が変わり、それを観察して、新たな"IT技術の使い方"が言葉として定義される。注意して見てみればWeb2.0以降、クラウドもビックデータもモバイルも基礎技術は言葉の前から完成しているわけで、ソーシャルなどというものは現象の説明に過ぎません。

その順番をはき違え技術が社会を変えるのだと信じた「IT業界の人が社会を語る」という奇妙さ。もちろん、個別の人が嘘をついているわけではありません。むしろ、それは近代産業社会の要求であり、

『制御したくない変化、あるいは実際には制御できない変化を、民主主義の社会はしばしば科学技術の産物として語ってきた』

と指摘します。それこそが

『「情報化」の夢を見る社会の実態』

であり、

『自らの選択を技術のせいにすることーその責任回避の姿勢こそが真の問題なのだ』

と厳しく糾弾します。「社会を変えてやる」という心意気は、ともすれば、自らが社会の救世主であるかのような錯覚を起こさせ、自己陶酔の妄想となります。そして「自分を理解しない社会」を嫌気するのです。

 

この指摘はITに関わる身として常に意識すべきだと感じます。ITを扱っているからこそ「ITが社会を変えうる」と信じてしまう。でも、そうではない。

それよりも大事なのは「社会の変化に気づく」ことであり、その上で「どのように技術を利用すればいいのか」を考える視点なのでしょう。技術だけを見ていると、その技術のもたらす未来に社会のニーズが動いてきて当然のように感じてしまいます。でも、社会はそんなことを気にはしていません。

企業相手にシステム開発をしていると、この視点が重要だと感じます。社会で活動する企業もまた、社会に合わせて変化することで生きながらえています。歴史ある企業は自らを変化させながら近代産業社会の変化に追従してきたのでしょう。そして、これからの変化にITは欠かせないものとなります。そこにコミットすることは非常に面白いことです。

 

IT技術は今後も社会には欠かせません。だからこそ、そこに関わる人は安易に技術決定論に陥らず、社会にこそ興味を向け、そこにある機微を感じてほしい。もちろん、素人が社会を論じることは簡単ではありません。しかし、少しでも良い社会になるように自分がIT技術者として何ができるのかを考える、そうしたミクロの気持ちが集積があれば、それこそがITが社会を変えることにつながると思うのです。

僕に何ができるのかはわかりませんが、少なくとも2013年もできる限りのことをして 行きたいと思います。