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ITアーキテクト 鈴木雄介のブログ

ウィトルーウィウス 建築書

ウィトルーウィウス建築書 (東海選書)は建築家ウィトルーウィウスによって紀元前30年頃に書かれた書籍で、最も古い建築書として知られてます。松岡正剛による書評(778夜『建築書』ウィトルーウィウス|松岡正剛の千夜千冊)が素晴らしいので加えることもないのですが、とはいえ、僕自身の備忘としてブログにしておきます。


この本は「建築書」といっても家の建て方だけが書いてあるわけではありません。城壁の作り方、都市の配置と方向、神殿における柱と配置と形、劇場の形と音の響き、都市と田舎の個人邸の違い、土地が持つ地質や水質の見分け方と飲み水の確保方法、さらには各惑星の動きと星座の見方、日時計の作り方、そして、荷揚げや石材運搬の器械、水車やポンプの器械、あるいは、軽弩砲や重弩砲といったものの説明が書かれています。

大変興味深いことは、それぞれについて単なる実践のための手順書ではなく、歴史の中で蓄積された理論がしめされ、さらに、実践と理論が結びつくことの重要性が書かれていることです。

星学者と音楽家の間に四角形と三角形における星の協和と四度および五度の音の協和に関して共通の論議があり、また幾何学者にギリシア語でロゴス-オプティコスと呼ばれる視覚に関する議論がある。その他あらゆる学問においても多くのこと、むしろ総てのこと、が議論の対象として正に共通である。ところが、手とその操作によって完全なものに仕上げられる作品に手を付けることは特別に一つの技術において制作へと教育された人々のやることである。

「理論は多くの学問において共通」ではあるものの、「実践として作り上げることには専門の教育が必要」であるのです。

しかし、その理論というのも実践の積み重ねの中から形作られてきました。

「(その昔)人類は野獣のように一生を送っていた」「(火を発見すると)人間の集まりでは、偶然に単語が定まり、習慣の中でお互いの間に会話が生まれた」「一つの場所に集まるようになると、ある者は屋根を葺きはじめ、ある者は洞窟を掘りはじめ、日々改良された形式の家を造り上げた」「人間は本性において模倣的である学習的であるから、競争によって技能を鍛錬した」「今日でも他の国々ではその通りの状態で家が建てられている」「(これを証拠として)古代の建築法の発明についてこれがそのやり方であると判断する」

その上で、

「家造りに対する腕がいよいよ熟達し、職人を名乗ってもよいほどになった」「それからまた、彼らは己の知力をみがき、技術の多様性から生まれた広い考え方で前途を望み、次いで研究を尊重してシュムメトリアの理論にまで到達した」

シュムメトリアは「シンメトリー」の語源ですが、単なる「対称性」という意味にはとどまりません。

シュムメトリアとは、建築の肢体そのものより生ずる具合よき一致であり、個々の部分から全体の姿にいたるまでが一定の部分に照応することである。

部分を単位として全体が割り切れる、あるいは比例するといったことであり、建築を成り立たせる一つの要素として考えられています。

もちろん、理論は単に完成された姿だけに限る物ではありません。

建物を造り上げるに適する材料について、それらがどんな自然法則でつくられていると考えるのか、元素の集合はどんな混合割合いで適切に調合されているか、を読者に曖昧でなく明瞭であるように論述しよう。実に、材料のどんな種類も、人体も物質でも、元素の集合なくては生ずることも知覚されることもできず、またこれらの物に内在する因がどのいうふうにまたどうしてこうであるかを細密な理論によって証明するのでなければ、自然界は自然学者の教えによる真の説明をうることができない。

時は古代ローマローマ帝国となる頃、ローマ支配下の各地を回りながら、多数の都市国家をまとめていったのは、建物に限らない圧倒的な「もの作りの強さ」であり、その裏側には大量の理論があったということを想像させます。


そして、建築家自身にもこれを継承し、発展させるための「理論」と「実践」についての高い能力を要求しました。

建築家の知識は多くの学問と種々の教養によって具備され、この知識の判断によって他の技術によって造られた作品もすべて吟味される。それは制作と理論から成立つ。制作とは絶えず錬磨して実技を考究することであり、それは造形の意図に適うあらゆる材料を用いて手によって達成される。一方、理論とは巧みにつくられた作品を比例の理によって証明し説明しうるものである。

特に次の文章はもの作りの総てを説明した文章と言えます。

実に、すべてのものには、特に建築には、この二つすなわち「意味が与えられるもの」と「意味が与えるもの」が含まれている。意味が与えるものとは、それについて語られるよう提示されている事物をいい、意味を与えるものとは、学問の理に従って展開された解明をいう。

僕なりの解釈はこうです。あらゆる「もの」というのは、そのものが「何かとして機能する」ことによって、その何かの機能を意味する言葉が割り当てられます。「人とが住まうことができるもの」は「家」と呼ばれます。

一方で「何かの機能を果たしうる」ものを適切に造るには、その機能を定義し、そのものとして構成するための理論が必要となります。「家」というのは屋根や壁や入り口があり、さらには目的に応じた部屋割りが必要であり、そこには部材の強度や部屋の広さについての論理があります。

実践を積み重ねて「有用なものを造る」ことは確かに重要です。ですが、それは「『それ』ができた」というだけに過ぎません。そこからそれを磨き上げ、作り上げる能力を鍛錬し、その経験を理論として体系化する。そして、その理論を意識的に適用することによって、改めて『もの』を適切に作れるようになったと言えるのです。

もの作りというと実践的な知識ばかりが重視されがちです。もちろん、実践は重要です。しかし、時には理論を学び、その起源を知ることによって、より深く実践と向き合うことができるようになります。そして、実践を突き詰める中で生まれてきたものに名を付け、理論としてまとめることで、世の中の発展に寄与することができるようになると思うのです。

僕自身、まだまだ学ぶことも、やるべきこともたくさんあるのだなと、そして、少なくとも僕が学んだことは次の世代に伝えていかなくてはいけないなと感じた次第です。

ウィトルーウィウス建築書 (東海選書)

ウィトルーウィウス建築書 (東海選書)