佐藤可士和のデザインで良いのでは
話題となっておりますセブンカフェのテプラ問題。
これを「テプラを貼られたらデザイナの負け」とか「HCD/ユーザビリティの欠如だ」と書いている方も多いのですが、個人的には、このデザインで正解だと思っています。
「テプラを貼られた=分かりにくいのだから、もっと分かりやすいデザインにしておくべきだろう」というのは、その通りです。でも、モノが使われる以上、そこにはユーザーが介在し、そのユーザーを完全に制御することはできません。誰にでも分かるようにすることは不可能です。誰にでもわかりやすいのは不可能であれば、テプラで補完してもらうのは十分にありのはずです。
では、テプラを貼ってもらうことを前提にテンプレートを用意して、現場が工夫する余地を残しつつ、ユーザーがデザインに参加できるようにすべきだったのでは、という意見もあるでしょう。
分かります。でも、素人を参加させることは必ずしも正解ではありません。今回、テプラを貼ったのはエンドユーザーではなく、中間ユーザーです。中間ユーザーが優れたデザイナであるとは限りません。てか、そのテンプレを各店に配る努力ほどの価値があるのかと。
そこまで考えると、今回のデザインでちょうどよかったんじゃないでしょうか。十分にデザインの限界点だったのではないかと思うわけです。
議論の余地があるとすれば「佐藤可士和は意図的にデザインしたのか?」というとでしょうが、意図はしていないと思いますし、なんとなくコストとのバランスで妥協したんじゃないんですかね。まぁ、個人的には興味ありません。
もうね、僕としてはコンビニに置かれた数々の写真を見ていてハートを打ち抜かれちゃったわけです。大変に愛おしく、かっちょいい。これぞニッポンじゃないですか。使いにくいなら自分で使いやすくすればいいじゃないという精神がにじみ出てて、なんとも愛らしい。よしよし、いいこ、いいこ。
(これが醜悪で見ていられない!という人は日本じゃ生きていけないと思いますよ)
なので、「もう、これでいいじゃん、売れるんだし」と思うのです。デザイナからすれば試合に負けた感じかもしれませんが、そこに中間ユーザーが関わることで勝負に勝ったわけです。素晴らしいじゃないですか。
僕自身もITアーキテクトとしてソフトウェアをデザインする立場です。可能な限りユーザーに使いやすくしたいと思うし、そのためにはあらゆる可能性を考えたいとも思います。ですが、現実にリリースされたシステムの使われ方を聞くと敗北感しかないのです。
そして、実はユーザーにゆだねればいい感じに使ってくれたものを、無駄なコストを掛けて作ってしまったんじゃないかと自戒するのです。それって資源の無駄遣い、エコじゃないですよね。
僕としては、積極的にユーザーとの共犯関係を作るようなデザインを心掛けたいと思っています。愛されるって大事ですよ。そういう緩やかなモノを作っていたいなと思います。